プログラマーだって、サービス業だって、事務職だって「クリエイター」を名乗っていいと思うし、それを自覚して生きるべきなのです。その自覚があれば、違法コピーも本屋で写メも創り手の気持ちを考えもしない軽い発言も、できるわけがないのです。
ということを改めて思い知らされるBlog記事を。
札幌島屋呉服店 店長のきもの?支離滅裂、七転八倒ブログ: 職人さんの心を傷つけ、涙した一言・・・・
「そんなの、同じようなのがリサイクルショップに行ったら1,000円も出せばたくさん転がってるよ!」
だったら貴方はリサイクルショップで1000円で好きなだけ買えばよろしい。安さが価値になる人もいるし、リサイクルにも意味はあるし、それで幸せになれるなら別に否定はしない。
だけど、少なくとも作っている人の前でそれを口に出すな。表情に出すな。そういうところの「空気は読め」。
自分自身が責任を持っている仕事を、「そんなの、誰にでもできるよ」「そんなの、やっても意味がないよ」そう言われたらどう思う?専業主婦とか関係ないよ?「家事なんて、そんなの何の意味もない」って言われて何も感じない?手間はかかるし汚いし自分の時間は取れないし、それでも意味があるから家事をするんでしょ?
あたしはプログラマーで「ソフトウェアを創る」のが仕事だし、趣味程度とはいえ絵描きで同人誌作っていて職人芸的世界に生きているほうなんだとは思うけど、そもそも資本主義ってのは「何かを生産する」ことで対価を得るシステムなのよ。
サービス業は「人が対価を認める行為を創る」仕事だし、事務職は「他人の事務作業を代行することで相手の時間を創る」仕事なのよ。みんなそうやって創ったモノや他人の時間や誰かが認めた価値に対して、給料や代金や名誉という対価を受け取り、受け取った対価を資本として他の価値に対価を支払うことで経済が回っていくものなのよ。
自分の価値を自覚すれば自ずと相手の価値も尊重できるし、そのうえでは違法コピーも盗撮も、できるわけがない。作者の前で作品の価値を否定するなんて、できるわけがない。
なぜなら、それは自分自身の価値を否定する行為だから。
ここで間違えてはいけないのが、「作品を創った人の価値を否定する」のと「作品を否定する」ことの違い。前者は最低だけど、後者は作者のためになる場合も、ある。ただし、作品を否定したうえで相手の価値を認めることが必須。
今回のBlogで紹介されているエピソードは前者だろうな。仮に後者だとしても、言われた当人が深く傷ついてしまったのであればケア不足だし。
伝統芸能だから価値があるとか、一つ一つ手作りだから価値があるなんていうのは「伝統」に胡坐をかいた詐欺。まぁそういう意見もあるさ。
でも、それを詐欺だと思うのはそこに価値を見いだせないからであり、逆に「伝統」であるというだけで価値を見出す人だっているの。有名作家だというだけで殴り書きラフのコピー本が1000円でも、地獄に堕ちるべきダミーサークル+x時間待ちで並ぶ人だっているのと同じ。
ま、書店で1000円の委託販売しているものをイベント会場で800円で買って20000円で売っているところから買おうとするのはちょっと止めたほうが良いが。いやそこで「イベント会場でナマで手に入れたものが欲しいんだ!」というなら止めることもないが。
結局どこに価値を見出すかなんて個人単位でしかないのだし、価値観は他人が変えるものでもないし。ましてや価値を創った本人の前で価値がないことを叫ぶのは、自分自身が最低の人間ですって叫んでいるようなものよ。
この職人さんは、そんな自分の価値すら認められない人の意見は聞かなくてよろしい。耳に入っても忘れてしまえ。テンション上げてひとしきり八つ当たりして愚痴りまくってですっぱり忘れるべき。
そんなことで手を止めるのはもったいないよ。
…ところで、リサイクルショップでゴミのようにゴロゴロしている着物って、質はどれほどのものなの?いくらなんでもその値段だと、状態とかかなり悪そうな感じがするのだけど。でもそれでも欲しい人はいるからリサイクルショップは運営できるのよね。日焼けした100円処分品の古書にお宝が発見できるのと同じ論理よね。
そういう意味だと、「リサイクルショップで1000円でごろごろしている程度のモノ」にだって1000円の価値はあるのさ。「そんなもの」と呼んではいけないのさ。
本当に価値がないのは、価値がないと自ら認めた人間なのかもね。